昭君記事(公開前)

■物語について教えてください

 

 有名な“王昭君の悲劇”です

 漢と匈奴の戦いは一進一退を繰り返し、力に勝る匈奴の王韓耶将単于(後シテ)の妃に漢王の後宮から一人差し出す事になります

漢王は三千人の宮女の絵を描かせて最も見劣りのする者を選ぼうとします 皆、絵師に賄賂を贈りますが、昭君だけがそれをしなかった為に醜く描かれ、蛮族として恐れ忌み嫌われていた匈奴の王に送られる事になります 昭君は漢王の寵姫でしたが、君主の詞に私なしと涙を呑んで送り出します

娘を蛮族に奪われ傷心の昭君の老父母、白桃(前シテ)と王母(ツレ)のもとを里人(ワキ)が慰めに訪れるところから物語は始まります

 

老父母は娘が胡国に発つ時に形見として植えた柳木の周りを掃き清めています

昭君は柳が枯れたらば私も死んだとお思い下さいと言い残しました 既に柳の片枝は枯れ、老父母の悲嘆は日に日に増すばかりです そして里人の尋ねに応じて昭君が何故差し出されたかを語ります 更に桃葉の故事をかり鏡に愛娘の姿をうつそうとします

鏡というのは、冥界と現世との境目にあって、二つの世界を繋いでくれる通信手段であるわけです

実際に大きな鏡台の作り物が舞台に登場します この鏡に向かい老父は激しく嘆き泣き崩れて前半が終わります この時老父は中入りしますが老母は舞台に残ります 

 

さて後半ですが、昭君はやはり亡くなり、韓耶将も既にこの世にありません

昭君の亡霊(子方)が、鏡を通して自分の両親に会いたい、自分の姿を届けたい、として現れますが、昭君だけではなくて、韓耶将の亡霊(後シテ)も後に続くかの様に現れます

韓耶将の亡霊は衣冠正しく正装をして昭君の両親に礼を尽くすため、鏡を通して昭君の両親に対面しようというのです

ところが母親は韓耶将の姿を人間とは思えない、鬼か悪魔にしか見えないと怯え、鏡の中の御自分の姿を御覧なさいといいます

それ程に恐れるとは一体自分はどんな風に映っているのだろうと、韓耶将は鏡に映る己の姿を見ると、茨の様に乱れた髪、耳には鎖、正に鬼としか見えない気疎き有様、我ながら恐ろしい、面目ないと姿を消します 実際には後シテとして最後まで舞うのですが物語上は消えています

最後は昭君の花の様な美しい姿と父母を想う美しい心を称え能は終わります

史実は平和の為の婚姻外交なのですが、匈奴を非常に野蛮な民族とする事で絶世の美女の悲劇を描いたのですね しかしこの能には人種の差、文化の差、価値観の差といったものが描かれている様に思います

先ずもって老父母の悲嘆は当然のことですが、韓耶将の悲嘆も表現しないといけません


■テーマがあるのですね

 

「藤戸」ほど反戦を主題としている訳ではありませんが、大きな世界観的なテーマがあるのではないでしょうか

人種間の軋轢、それによる犠牲、偏見や差別が描かれていると思います

 

■伺っているとなかなかお能にしにくい内容ですね

 

能の優れたところでしょう 王昭君の題材を使って親子の情愛に留まらず、韓耶将の悲嘆をも描きつつ更にその根元まで描こうとする

韓耶将が昭君の親に礼節を尽くして対面しようとしますが、あまりにも恐ろしい姿なので人として認めてもらえない箇所ですが、

「荊棘をいたゞく髪筋は主を離れて空に立ち」

茨の様に乱れた髪が体に添わず逆立って生え

「さね葛にて結びさげ」

元結では到底結ぶ事が出来ないので蔓草で結び下げ

「耳には鎖を下げたれば鬼神と見給ふ姿」

耳には鎖を下げているので まさに鬼の姿と御覧になるのも尤もだ

この様に野蛮な姿として描かれていますが、老母の詞に

「胡国の夷は人間なり 今見る姿は人ならず ~冥途の鬼か恐ろしや」

胡国の蕃人といっても同じ人間なのに今この鏡に映る姿は人間ではない

地獄の鬼の様だ ああ恐ろしい

 と言うのです 同じ人間である事は理解できるが姿形の差異から

受け入れることは出来ないのです


■その韓耶将の亡霊は後シテが演じるということで、前シテの父親は中入りしていなくなるんですね

 

 後シテの着替えをする為に退場するわけです 鏡を見ずに母親だけ残していくのはおかしいですよね 後シテが最後まで舞うのもおかしいのです

「面目なしとて立ち帰る」 といって韓耶将は姿を消さねばなりません

原型は前シテ、ツレ共に舞台に残り、後半、別のツレが韓耶将として登場し、また先に退場したと考えられます そして老父母が鏡に映る昭君の姿をじっと見つめているシーンで終わりです

演出上無理な部分もありますが戯曲としてはよく出来ていると思いますし面白い

 

■前シテと後シテで、違う人物な上に感情もだいぶ違う人物ですが、どのように切り替えるのでしょうか

 

我々は体術として身に付けていますので、心情を切り替えるという様な事はせずとも変われるのだと思います

尉となる、鬼となる、という感覚でしょうか

 

■中入りで入った瞬間から前の白桃が抜けるんでしょうか

 

そうですね、面(おもて)を外したらば抜けるというか、無くなります

 

 

■つまり、詞を発しているときは役を演じているのではなくて役になっているということでしょうか

 

勿論曲の解釈を充分にしたうえで人物像を練り上げていくのですが、二曲三体を体術として身に付けるのです ですから役を落とし込むとか、役に入り込むという作業ではなく尉の謡、鬼の謡、また夫々の型が技術として先ず申し分のないように出来ていないといけません 

そして装束を付け最終的に面をかけることで正に役が生まれるという感覚でしょうか

仕舞や舞囃子ならば面装束なしで演じるわけですよね それこそ体術の表れです

 

■どのような点を大切にして演じようと思っていらっしゃいますか

 

既に涙も枯れるほど悲しみに耐えてきたと思います しかし柳が枯れ始め絶望に向かいつつある時に、鏡に望みを託そうとするのです 自分たちの無力さも感じているでしょう

心の起伏を表現したいと思います

箒で落ち葉を搔き集めます 決まった型がありますが、娘の形見の柳の為です 掃きかたも大事に扱わないといけません

 

鏡を取り出すにしても只物を持つのとは違います

ですから鏡に向かって正に訴えるかの如く嘆く型は大事です

「もしも姿を見るやとえんとんに向つて。泣き居たり」

激しく膝を着いて泣きます あまり他にはありません

後シテの姿も難しいですね 気疎き有様という恐ろしい姿ですが、能の扮装ですから決して具体的ではなく、それこそ品の良い姿です それを荊棘の髪、耳の鎖に見せなければなりません

それが体術ですね

 

■どういった点をお客様には見て頂きたいですか

 

菱田春草の王昭君図や馬上で琵琶を弾く姿など日本人も少なからず

馴染みのある物語かと思います

 主題については色々申し上げましたが、何かとてつもなく大陸的な

スケールの大きな景色が思われます 漢の王宮、胡国への道中、匈奴の都

物語とは別にいずれか情景を思い描いて頂ければと存じます

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