「武文」記事公開前

■そもそも「武文」が上演されなくなったのには理由があるのでしょうか?

当然廃曲となるには、評価を得られなかったなどの理由があるわけですが、本作は作りが「船弁慶」に似ています。後半の海上の展開は船弁慶とほとんど同じ演出です。ある意味で「船弁慶」という傑作のために、この「武文」が捨てられた可能性があります。
元々は、世阿弥の作る幽玄とは対極の、ドラマチックでスペクタクルな劇能を意図的に作ろうとしたものの、「船弁慶」と比した時にどうしても見劣りするということがあったのかも知れません。
■その「武文」が復曲に至る背景をお聞かせください
37年前、1987年(昭和62年)能楽研究者である横道萬里雄先生(初演時の能本作成・演出)が、能の草創期には世阿弥と対極をなす曲、観客が深く考えずに観ることのできる、単純に楽しめる作品があったのだということを示されたかった。それを父(故 金井章師)が依頼されたのです。
国立能楽堂の事業のうち、新作及び復曲の研究公演も目的の一つで、その第一回にこの曲が選ばれたという経緯があります

■37年前に復曲した後に、定番にはならなかったのですね やはりそれは「船弁慶」と似ているからということですか?
復曲は元々流儀の上演レパートリーにあったものですから、必要に応じては現行曲に復活という事も長い歴史の内にはありましたが、それはやはり現行曲に劣らぬ作品でなくてはなりません。新作に至っては余程の傑作が生まれない限り、現行曲に入れるなどあり得ません。この流儀にはあるがこちらの流儀には無い曲もあります。そういう意味では現行曲という枠は不可侵ですね。

■では、今回拝見するとまたしばらく観ることはできないのでしょうか

前回は評価を頂いて1989年(平成元年)に再演していますが、基本的に一回限りの上演とお考え下さい。ではなぜ我々が復曲や新作を上演するかといいますと、あくまで能の研究のためです。
我々が今後現行曲を勤めていく上で、作品を読み込んで、アナリーゼ(楽曲分析)して演じなければいけない、作者はどういう意図でこの作品を書いたのか、という事の再確認です。また当然ながらお客様に楽しんで頂ける舞台を作らなければいけない。そのためには、良い台本と役者の鍛錬と現場でのせめぎ合い、最後には調和して舞台を作り上げていくという作業が大事という事です。

■今回上演で使われる台本は、1987(昭和62)にお父様である金井章師が復曲された時のものから詞章の変更や増減はあるのでしょうか


台本はかなり手直ししました。
今回シテ、ワキ、間狂言を勤める、私、宝生欣也氏、野村萬斎氏の三人とも、初演時に出演(雄資師は地謡で)しており、当時の問題点や、役者側の感じた考慮すべき点などを、皆若かったせいもあって、明確に記憶として残っていました。
今回、台本・演出検討を担当した横山太郎氏(立教大学教授)は、本曲の作者であるとされる金春禅鳳の研究者で、初演時演出補佐の松岡心平氏の教え子でもあります。
この四人と、国立能楽堂の担当者と頻回に打ち合わせをし、詞章、型、囃子、演出上の修正すべき点を相当に検討しました。

■前回の舞台を参考になさっている部分というのはあるのでしょうか

正直なところ初演時の私たちの印象は具合の悪かった部分の多さです。
それはやはり当時、宝生流の新作や復曲に対するアレルギーです。否定的であったとも云えます。
まだまだ封建的で、ひたすら修練、稽古を専らにせよ、頭を使うなという教えでした。父は学究肌で能を演劇的に捉える考え方も柔軟なほうでしたが、何しろ初めての試みでしたので、相当に苦心していました。

初演時の本はかなり冗漫でした。どの役も皆活躍するので一人ひとりの場面がきちんと独立して長大でした。シテだけにクローズアップするのでなく、各役に活躍の場を与えるので、盛り上がったかと思うともう一度落としての繰り返しでした。それだけ各役が重要という事ですが、一曲を通しての流れという観点では問題が多かった。
今回、その流れを重視して当時の演出上際立って良かった点は当然残し、シテ、ワキ、間狂言それぞれの性格を明確にしています。

■地謡についてお聞かせください
 定番の曲目ではないということは、能楽師の方々は研鑽を積まれた時期に本曲をお稽古されていないと思うのですが、何を参考に謡われるのでしょうか

能のいわゆる演技作法、演出作法、能本作法には形式があります。
たとえば武文では、次第、名乗り、道行、問答、初同、問答、二同、中入という具合に進行して行きます。この能本作法と人物、主題によって曲が神男女狂鬼のいずれか、では舞事は何にすべきかという事が決まって来るのです。本曲のツレは一宮(後醍醐天皇の第一皇子)の妃ですから位は高く、また絶世の美女という事ですから、謡い方の類型としては楊貴妃や綾鼓の姫などが挙げられます。私達には体内にフォルムがあります。これを使うのです。

当然のことながら演出が必要です。強調する部分、謡の調子、リズム、全てを検討しなければなりませんが、所謂土台と言いますか、建物でいえば基礎の枠組みの様な物を能役者は皆それぞれに持っています。新しい設計図を作ったとしても、ゼロから作るのではありません。出来上がりのイメージを合わせる事でかなり早く、しかも完成度の高い物を作ることが出来るということだと思います。

■冒頭でスペクタクルというお話が出ましたが、併せて場面転換も多いと伺っています
怨霊となって嵐を起こし、海中から出現する訳ですから、激しいパフォーマンスが必要となりますが、能の演技作法から逸脱せず、激しさを抑えるという、能の演技作法でスペクタクル表現しなければなりません。また場面転換に関しては、初演時はかなり無理があり、停滞の原因にもなっていたのですが、今回欣哉、萬斎、横山各氏と綿密に協議してスッキリと整理できたと思います。後シテは面白く作らなければなりませんが、ただアクションや大仰な仕掛けで驚かす、といったようなことはしたくありません。あくまで能の演技作法の中で収めてお見せします。

■「武文」について、お能で怨霊が出てくることは珍しくありませんが、わざわざ自ら怨霊となって敵を海中に沈めるというのは展開として面白い筋立てです

「綾鼓」のシテがそうですね。絶望から入水して悪霊となって復讐に現れる。本曲は武文の怨霊がワキ(松浦某)を海中に引きずり込んで殺して終わりとなりますが、テーマから考えれば、全く異なる性格の、武文と松浦という二人の男性の、一人の女性をめぐる“執心”という事でしょうか。
かたや妃の美しい神々しさに魅了されながらも、愚直に守ることのみに専心し、指一本触れることが無い。かたやこの女を手に入れたいという欲情に駆られて奪おうという男です。この二人の人間性の違い、考えや行動の違いを際立たせなければいけません。

■ここはという見どころはありますか

復曲というのは台本をゼロから書き直すということではなく、あくまで元々あったものを磨きにかけます。映画などでは、同じテーマでリメイクして結末が全く違うということもありますが、能の場合はそうではない。現代に合わせ変化はつけますが、元々のオリジナルを崩す事はしません。もっとこうすれば面白くなるというアイディアはいくらでもありますが、それでは復曲にならず新作になってしまいます。

見どころの先ず一つとしては、妃と武文が騙されて苦境に追い込まれていくところでしょうか。陥れていく松浦と船頭達が利己的なのです。自らの利益や欲望のために、悪事へ動いていきます。間狂言の内、宿の亭主は少し逡巡しますが、松浦に脅され最後は利益に絆され悪事に手を染めていきます。
皇族である一宮の御息所と宮中の武士である武文が、市井の人物達に騙されて、妃は拐かされ、武文は屈辱に腹を切って海中に飛び込みます。それを見て市井の側が笑います。下の者が上の者を蹂躙してあざ笑うという構図は能として珍しいですね。

後半は最大の見せ場です。海上は嵐となり武文の顔が海面一杯に現れます。船中はパニックとなり、武文の怨霊が松浦を海中に引きずり込んで終わりとなります。
太平記では、怨霊を恐れた松浦たちが妃を乗せた小舟を生贄として嵐の海に突き流しますが、妃はある島に流れ着き、その後一宮と再会を果たします。

■後シテには舞事もあるのでしょうか

舞事は働とイロエです。あまり内容を申し上げてしまうと、当日御覧になる楽しみが無くなるので、これぐらいにしておきます。これも現行曲でないからこそですね。型は初演時にとらわれず、新しく作ります。


■シテ、ワキ、間狂言のお三方ともご自身のお父様がなさった役をなさるということに感慨はありますか

国立能楽堂にそうした意図はあったと思います。
私の場合は、たまたま父が初演した時と同年齢ですので、そういう点では、因縁めいたものがあるのかもしれません。

■私たち観客は今回の舞台をどういった視点で観たらよいでしょうか

ただ楽しんで頂ければと良いと思いますが、やはり役者の技術や表現力を見て頂きたいと思います。
当然のことながら現行曲とは違いますから、これまで能をご覧になってこられた方にとりましても、新鮮さや意外性を見付けて頂けると嬉しいですね。
作者は能を楽しんで欲しいと願って、この曲を書いたと思います。私達は苦心して作りますが皆様は大いに楽しんで頂けると幸いです。

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