●能「胡蝶」のご印象をお聞かせください
劇性に富んだ作風で知られる、観世小次郎信光の作で、宝生流では馴染み深い人気曲と言えるでしょう。年若い能役者の練習曲として作られたとも言われ、とにかく美しく謡い、舞うことが及第点となります。
吉野から都を訪れた僧が、一条大宮というところで美しい梅の木に見惚れていると、一人の女性に声をかけられます。彼女の正体は胡蝶の精霊なわけですが、「さてははじめたる御事にてましますかや(初めて来たのですか)」と問いかけ、「さればこそ見慣れ申さぬ御事なり(見慣れない人だと思った)」などと一人合点するところが、非情に素朴で可愛らしく思えます。教養をひけらかしたり、只者ではないと示唆したりしないところに、能の中でも唯一「昆虫」をシテとする本曲の趣向が込められているのではないでしょうか。
胡蝶の精霊は、春夏秋冬の花のなかで、早春に咲く梅に戯れることの出来ない悲しみから、成仏できないでいる、と語ります。荘子の「胡蝶之夢」、源氏物語の「胡蝶」の巻を引き合いに出しつつ、供養を頼んで姿を消す。この純朴な願いが不自然にならないよう、無私を心がけなければいけません。
僧は読経し、花の下に仮寝します。すると胡蝶の精霊が正体を現し、望み通り梅の花に戯れ、喜びの舞を舞う。夢の世界で、春夏秋の花も尽きるまで舞い戯れ、霜を帯びた残菊にも舞い遊び、やがて夜が明けるとともに、成仏して見えなくなってしまう。
誰にでも、子供の時に蝶々を捕まえようとした思い出があると思いますが、その馴染みやすさが独特の趣を滲み出すのかもしれません。位も軽く、余計な感傷は無用ですが、舞い務めるにあたって、その純朴な生命の喜びの、裏側にひそんでいる「死」の心象は忘れてはならないと思います。